朝日新聞編集委員の大野博人氏が国家功労勲章を受章 [fr]

 朝日新聞編集委員の大野博人氏が2月16日、ティエリー・ダナ駐日フランス大使により、国家功労勲章シュヴァリエに叙されました。

朝日新聞編集委員の大野博人氏
朝日新聞編集委員の大野博人氏
© 在日フランス大使館
大野博人氏とティエリー・ダナ駐日フランス大使
大野博人氏とティエリー・ダナ駐日フランス大使
© 在日フランス大使館

 
 大野氏は1955年、兵庫県神戸市で生まれ、1981年に朝日新聞社に入社しました。日本の支局や本社(九州、東京)で支局員や外報部次長を歴任したほか、特派員として外国(ジャカルタ、パリ)に赴任し、ヨーロッパ総局長(ロンドン)を務めました。影響力のある記者として信望を集め、2004年から2007年まで東京本社外報部長を、2012年から2015年まで論説主幹を歴任しました。

 フランスに7年滞在した大野氏は、フランス文学にも造詣が深いフランスの専門家です。パリに支局員(1996-99年)、支局長(2000-04年)として赴任し、フランスの政界や知識界の第一線で活躍する数多くの著名人に取材、インタビューを行いました。堪能なフランス語を駆使して、フランスの社会、政治、外交をつぶさに見つめた優れたジャーナリストです。

 フランスに厳しくも愛情深い目を向ける大野氏は、帰国後も含め、生涯を通じてフランスと強いつながりを保ちながら、日本人に対するフランスの知名度と好感度の向上に貢献しました。妻と2人の子どもも完璧なフランス語を話すことが示すように、家族や周囲の人ともフランスに対する思いを共有しています。

大野博人氏の答礼のあいさつ

2017年2月16日

 ティエリ・ダナ大使閣下、ポールベルトラン・バレッツ公使、広報担当のジョアン・ヴァラドゥー参事官、同僚、友人のみなさん、こんばんは。

 ただいま大使から国家功労賞をいただきました。また暖かいお言葉をちょうだいし心より感謝いたします。大変名誉なことであり、感激しております。

 友人の皆さん、また、この式典にこんなにたくさんでおいでいただき本当にありがとうございます。今日、このような栄えある賞をいただいたのは、ずっと支えてくださった皆さんのおかげにほかなりません。

 子どものころ、私は自分の将来についていろいろと夢想しました。最初は、建築家になりたいと思いました。父親が建築家だったからです。本を読むのが好きだったので小説家になりたいと思った時期もあります。もう少し後になって、高校生や大学生のころは、弁護士、哲学者、大学の先生などにもあこがれました。けれども、新聞記者になることはあまり考えていませんでした。ましてや、いつか自分が騎士になるなんて夢にも思ったことがありませんでした。私は馬を持っていませんし、乗馬もやったことがありません。

 けれども、人生は人生というのはつくづくわからないものです。

 私がフランスとの縁を深めることも、あまり予想していないことでした。私が生まれ育った家はとくに外国とは縁がない、ごく平均的な日本の家庭でした。自分の人生で外国に行ったり、ましてやそこで暮らしたりすることがあるとは想像さえしませんでした。ですから私自身、外国への興味は文化的なものに限られていました。

 そうはいってもふり返ってみると、やはりフランスの文化には心ひかれるところがあったようです。ロマン・ロランのジャン・クリストフに感動したり、ベルリオーズの幻想交響曲のLPレコードを何度も繰り返して聴いたりしました。学校の図書館から印象派の絵画集を借り出してよく飽きずにながめてはいました。

 でも、それは自分の現実の生活とは関係のない夢の国をのぞくような気分でした。自分自身がフランスに行ってみたいという発想にはつながりませんでした。ですから、大学で必修だった第2外国語のフランス語にもそれほど熱心ではありませんでした。

 ところが大学生だったある日、それが根底から覆りました。その日、私はたまたまパスカルのパンセを手にしたのです。もちろん日本語の翻訳です。パンセを読もうとした理由は覚えていません。たいした理由はなかったと思います。

 その哲学に大きな衝撃を受けた私はその日のうちに、その本をパスカルが書いた言葉、つまりフランス語で読みたいと思いました。その日から私は突然、まじめにフランス語の勉強をはじめました。あまりたいした成果にはつながりませんでしたが。

 パスカルやほかのフランスの思想家に夢中になった私は哲学者になりたいと思いました。しかし、まもなく世の中に哲学者の需要はあまり大きくないことに気付きました。その中で勝ち残る才能もありません。

 結局、ほとんど偶然のようにして新聞記者になったのですが、報道の世界、ジャーナリストの世界に入ってみると、記者の中には、私のように「哲学者のなり損ない」が多いのに気付きました。「歴史学者のなり損ない」や「小説家のなり損ない」もたくさんいました。私は、同じような仲間に囲まれて、居心地の悪くない場所だと感じました。そして、そこで35年以上も暮らすことになりました。

 ただ私の場合、フランス語を少しばかりかじっていたおかげで、新聞記者としてもフランスとの縁が深まることになりました。パリに記者として暮らしたのは、結構長くなりました。合計7年間、パリで記者として仕事をしました。

 私が記者として取材をしたテーマは多岐にわたります。外交や政治、経済も社会問題や文化もカバーしました。忘れられない経験はたくさんあります。

 もっとも印象に残っていることのひとつは、イラク戦争のときのフランスの姿勢です。皆さんご存じとのとおり、9.11のテロのあと、イラクに対する武力行使を急ぐ米国のブッシュ政権にフランスは反対しました。そのために英米から激しい批判や中傷を受けていました。それでも反対を貫き、イラク戦争には参加しませんでした。

 取材しながら多くのことを考えさせられました。米国とは何か、外交とは何か、戦争とは何か。そして、フランスとは違う立場を選んだ自分の国についても深く考えさせられました。

 また、フランスでは移民や難民の取材をする機会にも恵まれました。そこでは、彼ら彼女らを積極的に受け入れ、問題を解決しながら多様な社会を実現しようとするフランスの姿から、きわめて閉鎖的な自分の国のことを考えずにはおれませんでした。

 フランスが自分の暗い過去と向き合う姿を見たのは、人道に対する罪が問われたモーリス・パポン裁判を通してでした。ボルドーで裁判を取材しながら、自分の過去と折り合いをつけるのに今も苦労している自分の国の姿を重ねていました。

 さらに、欧州統合と国民国家の間の緊張の取材では、グローバル時代に自分の国がどんな問題に向き合わなければならなくなるのか、学ぶ機会になりました。

 フランスは、なによりも自分の国を相対化する視点を私に与えてくれました。私は、その視点を読者に紹介することを自分の仕事だと考えて取り組んできました。それがどれくらいうまくいったのかどうか、よくわかりません。しかし、すこしでもなにか読者に伝わることがあったとすれば、それは何よりもたくさんの機会を与えてくれたフランスにほかなりません。

 仕事だけではありません。私は家族とともにパリで暮らしました。私の娘2人は、中学と高校のほぼすべての過程をフランスの学校で過ごしました。また、バカロレアにも合格しました。ふたりとも今は外国に住み、仕事をしています。また、妻はもともと幼いころにパリに住んでいたのですが、私とパリに暮らしている間にさらにフランス語を磨き、フランス語の通訳として今も働いています。私だけでなく家族全員がフランスに多くの友人を持っています。こうしてフランスと深く関わることで、自分の人生を築いてきました。

 さて、今回私はシュバリエ(騎士)という称号をいただいたのですが、この称号をとてもうれしく思っています。というのも、この言葉は私が大好きな文学上の人物を思い起こせるからです。ドンキホーテです。彼は人々に馬鹿にされ、笑いものになりながら、自分が信じる正義のために闘いました。

 それは、ちょうど今の時代に新聞記者でいることと似ていないでしょうか、とりわけ朝日新聞記者でいることと。私たちは今、ポピュリズムや病んだナショナリズム、不寛容が蔓延している時代にいます。普遍的な価値は脇に追いやられ、理想主義は馬鹿にされ、シニカルな現実主義ばかりが喝采を浴びています。正義や民主主義という言葉は、居場所を失ったかのようです。

 そんな時代に、自分の信じる価値を馬鹿にされても発言し続ける。それが今日のジャーナリストに求められるのだとすれば、それはまさにドンキホーテがお手本に違いありません。私は、ですからこの称号を大変な名誉だと感じるだけでなく、とても誇りに思います。

 ありがとうございました。

最終更新日 17/02/2017

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